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159)「オッペンハイマー」

 今回は「当ブログ142回:コラムニストの条件」で話題にした、あのオッペンハイマー、愛称オッピーを再び取り上げました。前回のブログを書いた時は、日本では映画のオッペンハイマーはまだ上映解禁がされていませんでした。この映画を観たのは、2024年6月のドイツ旅行の往路の飛行機の中でした。この時、日本語字幕がなかったこともあり、どうも消化不良気味で3時間の大作を観終わりました。帰国後、映画の原作のAMERICAN PROMETHEUS, The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer の和訳が早川書房から「オッペンハイマー」のタイトルで出版されていることを知り、8月に入手し読み始めました。

 原書は、広島原爆に関する著作もあるカイ・バード(Kai Bird)とマーティン・J・シャーウィン(Martin J. Sherwin、2021年没)が構想から20年!!の歳月をかけて書き上げたノンフィクションです。和訳も3巻、各400ページ超の長編です。このことだけでも、この原作の映画化を実現したクリストファー・ノーランの苦労がよく分かりました。 ロバート・オッペンハイマーは、1904年、ニューヨークでドイツからのユダヤ系移民一世の父母から生まれました。父親は紳士服の輸入業者として成功し、経済的にも恵まれていました。子供時代は、まさしく神童で、特に数学、科学、語学に長けており、飛び級を繰り返しました。語学に関しては、ドイツ語、フランス語などの現代語はおろか、古代ギリシャ語やラテン語までマスターしたそうです。級友に「ラテン語で質問して。僕はそれにギリシャ語で答えるから。」と言ったという逸話があります。1922年にハーバードに入学し、学問は常に彼の楽しみでした。しかし、この時代の彼は社交が苦手で、特に女性との付き合いはほとんどなかったようです。ロバートの関心は、科学、特に物理学に傾いていきます。ハーバード卒業後は、英国とドイツを中心とするヨーロッパの各地で研鑽を積みました。当時の理論物理学の本場は、アメリカではなくヨーロッパだったのです。こうして、1929年、弱冠25歳でカリフォルニア大学バークレー校で、理論物理学講師の職を得ます。知識豊富で端正な姿形、それに加え誰にでも奢ってくれる気前の良さから学生からの人気は抜群で、オッピーという愛称が付き、彼もこの愛称を気に入り、自らもオッピーと名乗ったそうです。

 ロバートは、着々と理論物理学の分野での業績を積み上げていきます。専門分野以外の知的な社会活動としては、当時アメリカ特に西海岸の知的エリート間では、特に珍しくなかったソ連共産党に代表される左翼的な思想に傾いていきます。また、若い時あれだけ悩んだ女性との関係に関しては、常時深い仲の女性友達を持つようになっていきます。これらは、第二次対戦後に彼の災いの元になるのですが。左翼思想に関しては、1942年にナチスドイツがソ連と不可侵条約を交わすというロバートにとっては、青天の霹靂の出来事が勃発してからは、ソ連=共産主義に幻滅し、ナチスを倒すためにもアメリカを軍事的に応援する決心を固めます。

 1941年、日米開戦をきっかけにアメリカは第二次大戦に連合国側として参戦します。42年ごろからナチスが、原爆の開発を開始したとの情報が入り、アメリカでもマンハッタン計画の名称で、原爆の開発が始まりました。その責任者にロバートが任命されたのです。彼は、その研究と爆弾の実験の地としてロスアラモスを自ら選びました。そこは、彼が休暇時に馬で駆け回ったことのある、彼の第二の故郷だったのです。このロスアラモスでの原爆開発の研究と実験は、ロバートの卓越したリーダーシップのもと、紆余曲折はありましたが、着実に進み45年7月に最終的な爆発実験に成功します。この時、最大の敵であったナチスドイツは45年5月に敗戦し存在しなかったのです。アメリカ政府の方針は、日本に対し無条件降伏を要求したポツダム宣言を承認させるために、原爆を使用するというものでした。ロバートは、原爆開発はナチスに世界制覇させないために行なったもので、敗戦必至の日本、それも多数の一般市民の犠牲を伴う日本での使用に強い反対を唱えました。しかし、その願いは受け入れられませんでした。原爆投下後、ロバートは失意のどん底に陥りましたが、逆に世論は彼を英雄として讃え、タイム誌の表紙にもなりました。

 戦後のロバートの人生は、悲劇の連続でした。赤狩り(反共産主義)の嵐が吹き荒れた1940年代後半から50年年代にかけて、その中心人物であったFBI長官フーバーと上院議員のマッカーシーの最大の敵と見做され、ロバートが活動するあらゆる場所に盗聴器が仕掛けられ、彼をソ連のスパイとして起訴するための裁判が延々と続いたのです。しかし、理論物理学の仲間や弟子たちの証言や、マンハッタン計画の英雄に対する世論の助けにより1954年に、この災難よりやっと解放されます。しかし、その後も彼自身、様々な失意の感情から回復することはなく、夫婦仲や子供との関係もうまくいかない生活が続きました。 そして、1965年に長年の喫煙が原因と思われる咽頭癌により亡くなりました。 ロバート・オッペンハイマーは、裕福なユダヤ系アメリカ人であり、かつ天才理論物理学者でした。1940年代、50年代のアメリカでも、反ユダヤ主義は存在していました。(当ブログ151回:The Plot Against America参照)そのアメリカを、自らのユダヤ性を半ば封印し祖国として愛し、ユダヤ、アメリカの共通の敵であるナチスドイツを倒すために原爆開発を成功させ、英雄になりました。しかし、その原爆は彼が反対した、日本に対する使用という結果に終わったのです。その後は、赤狩りの対象とされ、失意のどん底に突き落とされます。このような複雑な性格と経緯を辿った人物の一生、またそれと同様の複雑な時代背景を描くには、この超長編ノンフィクションでも足りないくらいです。ましてや3時間の映画では、どう考えても無理というのが、私の読後感です。

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木戸友幸
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