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帰国

 長いようで短かった1か月が過ぎ、1990年12月3日に帰国することになりました。帰国の方法も五月雨式で、12月3日の帰国は、医療団付きの外交官Iさんと私だけで、その他のメンバーはリヤドで待機でした。

  帰国の行程はリヤド→バーレーン→香港→成田というものでした。バーレーンでは乗り継ぎ時間が6時間もありました。そこでIさんの先輩外交官Mさんが勤務している在バーレーン日本大使館を訪ねることにしました。バーレーンも中東の金持ちアラブ諸国の仲間なのですが、イスラム教の戒律が緩やかで、外国人の飲酒も黙認されています。ですから、サウジを含めた周辺の戒律の厳しいアラブ諸国からの外国人の息抜きのための危難場の様相を呈しており、いつも観光客でにぎわっています。

 日本大使館をMさんに案内したもらった後、近所の洒落た中華料理店で美味しい中華料理を「本物」の冷たいビールでごちそうしていただきました。その中での会話で、もしバーレーンからのフライトがキャセイ・パシフィックなら日本人外交官であることを示せばビジネス・クラスをファーストに昇格してくれるという情報を得ました。

 バーレーンから香港までの飛行機は実際キャセイ・パシフィックだったのです。Iさんはキャセイのカウンターに着くなり、Mさんからの情報をもとにファースト・クラスへのアップグレードの交渉を開始しました。交渉相手はカウンターにいたちょっと意地悪そうに見えるイギリス人の中年女性でした。彼女は確かに以前のマネジャーの時は、日本大使との個人的な付き合いから、そのようなサービスがあったことを認めました。しかし、マネジャーが最近変わり、その種のサービスはなくなったと明言しました。でもIさんは一歩も引きません。マシンガンのような早口の英語でまくしたてました。「君は、日本大使とキャセイの現地マネジャーとの間で交わされた紳士協定を無視するつもりなのか。まったく信じられない外交音痴だ。君ではまったく埒があかない。マネジャーを呼びたまえ!」冷静沈着(冷血?)なイギリス人女性もさすがにこの勢いにはたじたじとなり、男性マネジャーを呼んできました。マネジャーも彼女の話を追認し、その種のサービスはもう出来ないと明言しました。私もさすがに、それ以上の交渉は無理と判断して、Iさんの袖を引いて「もうそろそろあきらめましょう。」と小声で言いました。Iさんは「いやあ、こういう交渉は私の趣味の一つで出来ればもう少し引き延ばしたいのですが、出発時間も迫っているのでそろそろお開きにしますか。」と今までのテンションからは信じられない穏やかな声で終戦宣言をしました。

 予定どおりのビジネス・クラスの席に無事収まり、ウェルカム・シャンパンをすすっていると、Iさんが通りかかった客室乗務員相手にまたあのアップグレードの交渉を始めるではありませんか。さすがに私もそのタフさ、しつこさにあきれてしまいました。そこへ、何とあの最初のグラウンド勤務の意地悪イギリス人女性が業務連絡で機内に乗り込んで来たのです。そこでIさんが交渉している姿を目にして、それこそ口をあんぐり開け、肩をすくめギブアップのジェスチャーをしました。それはちょっと笑える風景でした。それにしてもIさんほどの粘り強い交渉家は後にも先にも見たことはありません。生まれながらの外交官ですね。

 香港啓徳(かいたく)空港で4時間のトランジットの後4時間半のフライトで成田に無事到着しました。成田のターンテーブルから出た荷物をすべて抱えて歩く姿はまるでどこかのアジアの国の難民のようだとIさんにからかわれました。スーツケースと手荷物バッグの他に、サウジで買ったシルクの絨毯2本(丸めて筒状)とテニスラケット、それにお土産の入っていくつかの手提げ袋数個を抱えて歩く私の姿はまさに難民でした。

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木戸友幸
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