76)グローバル人材の育成
2017年9月17日の日経朝刊に、日産取締役の志賀俊之氏のインタヴュー記事が載っていました。タイトルは「グローバル人材の育成」でした。その記事の中で、私自身が自らの学生時代を振り返って、非常に腑に落ちた部分がありました。それは、「日本では理系は別にして、大学で勉強しなかったことを自慢する文化があった。」という発言です。
志賀氏は理系は別にしてとおっしゃっていますが、医学部(一応は理系)においても、教授にまで上り詰めた医師が「俺は、学生時代ラグビーに燃えていて、講義はほとんど出なかったよ。」などと自慢げに話すことはまれではありません。それは、恐らくその人が卒業してから医師として頑張って勉強して今の位置まで上り詰めたので、その人個人にとっては、自慢なのでしょうが、それを若手医師に得意顔で話すのには、私は違和感を感じます。こういう雰囲気が、日本の大学教育軽視に繋がっているのではないかと思うのです。
確かに、1970年代の日本の大学の医学教育は、あまり効率的ではなく、教師も忙しすぎるということもあったでしょうが、熱心な準備周到なものではありませんでした。そういう時に、欲求不満の講義の部分を当時の米国の最高峰のハリソン内科書で読み返してみたら、ここの部分があの講義には欠けていたからすっきりしなかったんだと納得できました。まずい講義もそれなりの存在価値があります。でも、それは講義を聴かなければ分かりません。
私の学生時代の愛読書の一つに五木寛之氏の「青春の門」があります。主人公の伊吹信介は、筑豊から東京に出て早稲田大学に入りますが、アルバイトとボクシングの練習に明け暮れ、結局、早稲田での講義はほとんど受けることはなかったのです。しかし、信介は早稲田を離れた後、さまざまな事件に遭遇した後、グローバルな冒険に旅立ちます。その辺のところは、五木寛之氏が2016年に「青春の門」の続編の執筆を再開していますので、興味のある方はお読みください。この「青春の門」も、少なくとも昭和の時代の大学教育軽視;大学で勉強しなくても社会が大学さ、みたいな風潮を作り上げた可能性はあります。
もう一つの大学教育軽視、もっと簡単に言うと、どうして日本の大学生は授業と簡単にさぼるのかという明確な理由があります。それは、日本の大学生の大半が、その授業料を保護者に出してもらっている事です。これは、私自身もそうだったので、大きな事は言えませんが、ほぼ事実です。何故そう断言できるかというと、大学授業料が日本より高額な米国での体験があるからです。1980年代前半の3年間、ニューヨークで研修医として過ごした時、同僚のアメリカ人に大学授業料について尋ねると、日本と真逆で、大半が自らがいったん社会人になり、資金を準備したり(米国の医学部は一般大学を卒業してから入学する。)、奨学金を探し出したりして、親には頼っていないことが分かりました。もちろん彼(彼女)らは、医学部の授業をさぼることは、まずありません。皆さんも、社会人になってから、例えば語学学校などに通うようになった時、自分で授業料を払っていたら、簡単に授業をさぼったりしないと思います。やはり、身銭を切らないと、どんなことも、ものにならないということです。
2018年6月に「村上さんのところ」新潮文庫、村上春樹著を読みました。これは村上春樹に対する読者からの質問とその回答を公開したものです。女子大講師の女性からの質問で、講義中の学生がおしゃべり、化粧、飲食などをして講義に集中してくれないのでどうすればいいですかというのがありました。春樹さんは、アメリカの大学で教えていた時のエピソードで答えました。ある時講義の最後に「来週までにこの本を読んできてね。」と課題を出すと、一人の学生が手を上げて、「村上先生、僕らは高い授業料を払ってここで学んでいるんです。もっとたくさん課題を出してください。」と言い、春樹さん自身、すげえなあと思ったそうです。
同輩、あるいは先輩の読者の皆さん、若者に大学教育について尋ねられたら、ぜひ大学教育について肯定的な面を語ってあげてください。間違っても、自らの「さぼり体験」の武勇伝を自慢げに語らないでください。
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