42)日系アメリカ人部隊
皆さん、第二次大戦中にアメリカで、日系米人のみの陸軍部隊があったのをご存知ですか?真珠湾攻撃で開戦した太平洋戦争(第二次世界大戦の中の日米戦)ですが、建国以来初めて自国領に大きな攻撃を受けたアメリカ合衆国は、激怒し、また疑心暗鬼に陥り、アメリカ本土に在住する数万人の日系米人をrelocation
camp(一時移住所)と婉曲的に称された、実質上のconcentration camp(強制収容所)に幽閉してしまったのです。その暴挙に輪をかけてアメリカ政府が実施したのは、強制収容所在住の若者への米国陸軍入隊募集だったのです。しかし、当時の日系米人の若者達(ほとんどが二世)は、自らの命を預け、米国政府に忠誠を尽くすことで、親達の名誉を回復しようと、多数が入隊したのです。ハワイでは、収容所幽閉こそなかったものの、ここでも、陸軍募集は実施され、多くの若者が入隊しました。この本土組とハワイ組の日系部隊が合体して作られたのが米国陸軍442部隊なのです。
442部隊の兵士は日系米人なのですが、士官(指揮官)は白人のアメリカ人でした。これは、アメリカ政府が心底からは日系米人を信用していなかったためだと思われます。戦闘に出るまでの訓練は過酷で、それでなくても体格や体力で白人に劣る日系人ですから、それこそ地獄の苦しみだったようです。442部隊は、同士討ちや心理的葛藤を避けるため、太平洋戦線ではなくて、欧州戦線に送られました。主な戦場は、ドイツ占領下のフランスでした。いくつかの激戦地で、目覚ましい活躍を示した442部隊は、次第に米国陸軍の信用を得ていきました。
その頃、フランスの山岳地帯にあるボージュ山地のある山頂に、テキサス大隊がドイツ軍に包囲され身動きがとれなくなっていました。何度か、屈強の部隊が救出を試みましたが、山麓を固めたドイツ軍の機関銃部隊に阻まれてしまいました。そこで、最後の望みをかけられたのが、何と442部隊だったのです。442部隊のモットーは、Go
for broke! (当たって砕けろ!)です。brokeは文法的にはおかしいのですが、いわゆるハワイのピジン・イングリッシュなのです。このGo
for broke精神で、彼らは倒れた戦友の死体を乗り越えて、山頂まで辿り着き、テキサス大隊を救出したのです。日系部隊が山頂に辿り着いたとき、テキサス大隊の面々は、突然の日本人顔の兵士の出現に驚きましたが、その軍服と英語での説明に納得し、親子ほどに体格の違う日系兵士を涙ぐみながら抱きしめたのでした。この作戦での戦死者は、救出に当たった442部隊のそれが、救出されたテキサス大隊のそれを遥かに上まわっていたのです。
私が何故、この442部隊に関心を持ってきたかを説明します。1980年からの3年間のブルックリンでの研修医時代に、某製薬会社の留学生サービスで文芸春秋を毎月送ってもらっていました。その頃一年間ほど連載されていたノンフィクションがドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」という442部隊を扱ったものだったのです。当時、プルックリンで悪戦苦闘していた私は、この話を読んで、私が体験している程度の苦労でめげていてはだめだと思い直し、研修を全うすることが出来たのです。その後、偶然、当地でのテレビのニュースで、テキサス大隊が主催する年一回のパーティーの報道を観たのです。このパーティーには、元442部隊兵士が毎年、世界中どこに住んでいても、飛行機運賃と宿泊料付きで招待されるのです。テキサス大隊の兵士達は、それほどまでにボージュ山地での救出に恩義を感じているのです。それ以降、私は帰国してからも、442部隊をテーマした書物や映画を、こまめに読んだり観たりしました。
442部隊は米陸軍史上最多の勲章を授けられた部隊で、戦後はその功に対して、時の大統領トルーマンからも勲章を受けています。元442部隊出身の一番の有名人は、あの片腕の政治家、ダニエル・イノウエ上院議員です。そういえば、映画カラテキッドのダニエルさんの師匠のミヤギは元442部隊出身という設定でしたね。
2003年、ハワイで研修医をしている日本人医師とメル友していたことがありました。その医師と私は、当時同じスポンサーのサイトで、毎月プログを連載していたのです。ある回に私が442部隊のことを書いたのを、その医師は読んでいて、当時その医師が受け持っている患者の一人が元442部隊兵士であることを知らせてくれました。そこで私は、その研修医を介して、これまで知りたいと思っていたいくつかのことをその患者に質問してもらったのです。残念ながら、いろんな事情で、私が欲しいと思っていた情報は得られませんでしたが、間接的にでも実際の元442部隊の方と知り合え感激しました。
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