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120)「遠い崖」再訪

 「遠い崖」は1976年から1990年の長きにわたり朝日新聞に連載されていた萩原延壽著の歴史ノンフィクションです。私も当時新聞紙上で時々は読んでいたのですが、それほど熱心な読者ではありませんでした。新聞連載終了後、1998年に単行本が出版され、2008年に遂に文庫本が出ました。
本書は幕末から明治維新にかけての波乱万丈の日本史を、若きイギリス人日本語通訳官、アーネスト・サトウの日記(英国国立公文書館に所蔵されている)を基にして歴史家、萩原延壽が執筆した力作(平均400ページの文庫本が何と14巻!!)です。朝日文庫が発売された数年後に先ずは1巻から購読すると、止まらなくなり、数ヶ月かけて14巻全て読破しました。

 サトウと聞くと佐藤との連想から日系人と想像されるかも知れません。そうではなく、サトウはスラブ系の希少姓だそうです。サトウは1862年19歳の若さでイギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任しました。サトウの日本語通訳としての前任者はなく、日本語教師について一人で日本語を学び、わずか1年で通訳業務をこなせるようになったのです。その語学力もさることながら、彼は好奇心の塊で、日本のしきたり、自然、建築物などありとあらゆるものに興味を示します。それらの見聞も味方につけてその後、明治の新時代に政府重鎮になった大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文、勝海舟などと幕末の時代に親交を結ぶようになるのです。彼が公私にわたって彼らから得た情報は、イギリス政府の対日政策に大きく貢献しました。つまり、彼は単なる通訳者ではなくて、有能な諜報員(スパイ)として日本の波乱万丈の時代に大活躍をしたということです。

 映画「燃えよ剣」を観、小説「ラ・ミッション」読み(異文化118回)、幕府側に最後まで軍事援助したフランスと比べイギリスはどのような外交をしたかを調べたくなり、その貴重な一次資料(ほぼ)である「遠い崖」を再読しました。幕末の日本という欧州からすると特殊な国での外交能力はイギリスの方がフランスよりはるかに上だったことは間違いありませんでした。まずイギリスにはサトウを含め優秀な日本語通訳が複数いました。サトウは日本語能力のみならず、持ち前の好奇心から、幕府の要人のみならず、薩摩や長州の若手藩士とも交友を結び、その私的な情報交換からさまざまな政治的な動きを探り出すことができました。それに対し、フランスは唯一の日本語通訳であったメルメ・カションは肝心の幕末動乱の時代に、私欲に駆られてフランスに帰国しており、通訳は幕府の重鎮でフランス語に通じた日本人に頼るしかないといった状態でした。したがって、情報収集にかけては明らかにイギリスが優っていました。それに輪をかけて、時のフランス公使レオン・ロッシュがかなり思い込みの激しい人物で、個人外交をする傾向があったのです。ということで、客観的な見方、あるいは歴史の結果からすると、好意的に解釈すると情報を刻々と正確に把握していたイギリスが外交巧者、悪く言うと時の強者に立つ日和見主義外交であったとも言えます。フランスは情報の欠如もあり、最初に肩入れした幕府に最後まで義理を果たし、結局日本での利権を大きくは獲得することができなかったと言えるでしょう。

 19世紀から20世紀初頭の世界の外交史を紐解くと、イギリスは確かに外交能力には長けており、さまざまなイギリス主導の外交活動を行なってきました。しかし、そのいくつかは、関わる当時国それぞれに異なった約束をする二枚舌外交が多かったと言われています。それに反し、フランスはイギリスに比し、外交力、軍事力共に劣っていたようですが少なくとも二枚舌外交はしていなかったようです。

 判官贔屓とも言えるでしょうが、歴史好きの日本人(私も含め)にとっては徳川幕府に義理もあり、あくまで援助を続けたフランスがイギリスより人気が高いようです。 日本に関わった国の好き嫌いは個人の自由ですが、日本の歴史に大きく関わった国の関わり方の理由を入手可能な資料で確かめることも大事だなあと今回つくづく感じました。

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木戸友幸
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