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110)高校時代の異文化体験

 高校は大阪府立北野高校に通っていました。1960年代後半のことです。大阪で一番歴史の古い高校なので、昔から続いている面白いしきたりのある高校でした。例えば喫茶と軽食と出してくれる食堂はティー(ティールームの略)と呼ばれていました。クラブの対校戦などで他校の生徒が来た時など、試合のあとで「ティー行こか。」とか言うと「洒落てますね。」とかよく言われました。でも、どこにでもある普通の高校の食堂です。

 教師が病気その他で休んでしまった時は、その授業は休講になるのはどこの高校でもあると思います。うちの高校はその休講をわざわざ英語でブランクと呼んでいました。ブランクの時はクラスの中で誰も意見を出さなければ、自由に何をしてもよく、テニス部の連中などは、誰も使っていない時間帯のテニスコートで好きだだけ打ち合ってました。

 誰かが意見を出して「〇〇先生の講話(これも何か英語の名称があったように思うのですが、何しろもう50年以上前のことなので忘れました)が聴きたい。」と言い、それに大半が賛成したら、総務(学級委員長のこと)がその先生に交渉に行くのです。人気のあった先生は、海外の経験が多い先生でした。J大学陸上部の花形長距離選手だったS先生は北野でも体育を教えていたのですが、日本の高校代表選手を率いて海外遠征をすることが多く、その時のエピソードを語ってくれました。1960年代のソ連(今のロシア)は、当時、軍事と宇宙には途方もない金を使うけれど、庶民の暮らしは非常につつましいものだったとういう話を例を挙げて語ってくれました。例えば、土産物で一番喜ばれたのは、日本では当時でもごく当たり前に買えたパンストだったそうです。

 地理のH先生は面長なお顔が特徴的で、そのあだ名は我々の生徒時代の数十年前から馬珍(ばちん);馬でも珍しいの意、でした。さて、その馬珍先生は学生時代テニスの名手で、高校テニス代表を率いて海外遠征をすることが多かったのです。彼の講話の中で一番印象に残っているのは、中国遠征の時の話です。馬珍先生が日本高校代表の生徒たちを引き連れて初めて中華人民共和国を訪ねた時のことです。始めての共産圏の国ということで、先生もかなり緊張していたそうです。一行が宿泊するホテルに入ると、もちろん生徒たちには相部屋が振り当てられていました。馬珍先生は、中国側の世話係の人に、「私はどの部屋に泊まればいいのでしょうか?」と尋ねると、「H先生には特別室、もちろん個室を用意してあります。」と答えたそうです。そこで先生は「中国は共産主義の国で、身分や年齢で差別をしない国と聞いているのですが。」と一応ちょっとしたヨイショも含めて言ってみたそうです。するとその質問に相手から帰ってきた答えは一言「多能多労」(能多き者、労多しの意)という中国語だったそうです。

 この文章を書き終えた後、記憶が正確かどうかを確かめる意味もあり、この多能多労という「中国語」をネット検索してみたのです。ところが、これに該当するものは見つけられませんでした。代わりに見つかったのが能者多労という言葉でした。意味はまったく同じなのですが、この語の出典が荘子であることまで書いてあったのです。すると、私の記憶違いだったのか、あるいは馬珍先生の聞き違い、または記憶違いだったのか。今となっては謎です。

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木戸友幸
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