1) はじめに
このサイトの他の様々な記事をご覧になれば分かるように、私はこれまでに米国、サウジアラビア、フランスと日本と文化を異にする国々で活動してきました。また、日本にあっては欧米人を中心に外国人診療を続けてきました。これらの体験をもとにして、今回、私なりの「異文化コミュニケーション」を皆さんにご紹介しようと思い立ちました。
大阪医大を1977年に卒業後、大学の内科で研修を終えてから1980年より3年間、米国の病院で研修生活を送りました。この時のエピソードは「ブルックリンこぼれ話」にかなり詳しく書きましたので今回は触れません。
83年に帰国し、国立大阪病院(現国立病院機構大阪医療センター)に勤務することになりました。当時の国立大阪は、ベテラン医師が多く、32歳の私はまったくの若造で、自分の役どころが定まらずかなり焦っていました。連日病院中を駆け巡って、何か私でなければ出来ないことはないかと模索していました。
この病院探検の中で、総合案内のスタッフ達と仲良くなり、いろいろな情報を得るようになったのです。国立大阪は地下鉄谷町4丁目駅から直接の連絡口で通じており、非常に交通の便のよい立地なので、外国人の受診者が当時からかなり多かったのです。その外国人患者を、総合案内でどの医師に割り振るかがそこそこ深刻な問題になっていました。実はどの医師も外国人患者を診察したがらなかったのです。
まず、外国語(主に英語ですが)が苦手ということがあります。また、多少英語が出来ても、日本人相手の場合より3倍は診察時間がかかってしまいます。総合案内のおばちゃん達には、外国人患者の診察を依頼された医師からの苦情が殺到しました。そこで、私は彼女らに言いました。「これからは、日本語をしゃべれない外国人が来院したら、迷わず内科の木戸に連絡してください。」これが喜ばれないはずはありませんでした。ここから、国立大阪病院での私の異文化外来が始まりました。
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