フランスの医療改革の最近の動向と医師の抵抗
病院、56巻9号、1997年9月
フランスの医療改革の最近の動向
第二次大戦後長らくの間、わが国では社会医療の見本のようにいわれ続けてきたイギリスや北欧の医療も近年大幅に改革され、国の経済的負担の軽減化にある程度の成功を収めつつある。ところがフランスでは1980年代がミッテランによる社会主義政権であったという理由によりこの医療改革が進まなかった。したがって、1995年に政権を
とった中道右派のシラク大統領・ジュペ首相のコンビに課せられた最大の国内問題の課題の一つが、ミッテランが生涯手を付けることのなかった医療改革であった。
シラク・ジュペの決断は迅速で、1995年12月にはフランスの国鉄改革案などの様々な脱社会主義的な改革案とともにこの医療改革案も発表され、これらのすべてを含む改
革案が巷ではジュペ案(Plan Juppe)と呼ばれた。しかし、このジュペ案に対する各種の労働組合からの反対も極めて迅速かつ強力に実行に移された。1995年末に1カ月にわたりフランス各地でジュペ案に反対しゼネストが打たれたことはいまだにわれわれの記憶に新しい。このとき、医師以外の看護婦など医療職のスト参加はかなりの数であったようであるが、インターンを含めて医師の参加はほとんどみられなかった。
1995年の時点ではかなり先に実施される「案」であったものが、1997年3月になるとこの時点より1年半後、すなわち1999年初頭より、社会保障の年間の支払額に上限を
設け、これを越えた医師は制裁を受け、越えた分は払い戻されないという具体的な事象が期日も明記されて発表された。またこの制裁は、上限を越える医師の数が多い県においては連帯責任制(sanction
collective)をとり、その県の医師全員がその損 失を分担するとされた。当案がこのまま実施されるとまず最初に影響を受けるのが現在インターンをしている若手医師たちである。
それに対する医師の反応
上記の政府の動向に述べたように、ジュペ案が発表された1995年末には医師からの目立った反応はなかった。しかし、1997年3月に発効の開始時期を明記したジュペ案の具体的内容が発表されると、その影響をまともに受ける可能性が一番高いインターンたちが全国各地でストライキという形で講義の意思表示を開始した。もともとインター
ンの待遇は極めて悪く、不眠不休で働いて、月収は当直料込みで9,000フラン(18万 円)程度と非常に低く不満の土壌はあった。しかしこの職場の悪条件はあくまでストの引き金であたらしい。また彼らが強く反対しているのは診療報酬の支払額に上限を
設けたということよりも、その付帯事項である連帯責任制であるようである。これは個人を重んじるフランス人の特性(悪くいえばエゴイズム)からして当然の反応であろう。
スト派インターンのジュペ案に対する反対意見をまとめてみよう。まず代表的な意見として、「医学の進歩に伴い検査もより高度かつ複雑になり、それだけに費用もかさ
む。ジュペ案が実施されれば患者に責任をもった医療ができない。」というものであ る。また「いったん上限を越えてしまった医師は患者を断るか無料で診察するしかない。後者を選ぶ医師はまずないので、予約を数ヶ月先にして次年度扱いにする事態が生じ、結局、患者につけが回ってくるだろう。」というもの。「費用がかさみ手のかかる超高齢者を診ようという医師はいなくなるのではないか。」という意見もある。「検査料などがもっとも高くつく超専門医は支払い基金への報告逃れのために、患者に現金払いを強要するのではないか。」といった穿った意見もある。少数ながら、ジュペ案に賛成の意見もあったようである。現在のフランスの自由開業医師の無駄な検査
と処方の多さをみると、このくらいの大鉈を振るわないと社会保障医療の収支改善に はつながらないというものである。
さて、1ヶ月ほど続いたストは内部の意見不統一などもあり、自然消滅のような形で収束した。また、このストによりインターンが勝ち取れたものはほとんど何もなかったようである。
これらに対する国民(患者)の反応、国民生活への影響
診療報酬の支払額の上限設定については、国民の反応も医師とほぼ同じで、このことによる医療の質の低下を心配するむきが多いようである。この意味においては医師に対し同情的であるようにみえるが、一般国民からすると医師は労働者というより特権
階級とみなされているので、国民の目はこのストに対し概して冷ややかであったよう に思える。医師の連帯責任制に関しては、国民の側は社会保障の赤字につれて、掛け金の上昇あるいは払い戻し率の低下という形で、病気をしない人も含め連帯責任をとってきているのだから、どうして医師の側だけが連帯責任をとれないのかという意見もある。
国民生活への影響という面では、それほど大きな影響はでなかったようである。イン ターンは救急医療の第一線を担っている場合が多いので、その分野ではいくらかの影響が出たかも知れない。しかし、病院の他の常勤医は勤務しているし、街の開業医も
通常通りの診療をしていたので、深刻な影響はなかったと思われる。もともとフラン スの公務員のスト権は限定的なもので、ある一定の割合の職員は職場に残らなければ
ならない。職場に残る職員は「私もストに参加しています。」というゼッケンを着けて仕事をする。今回のストでもこのゼッケンを着けて勤務している医師がみられた。
国際的視野からの考察とその後の動き
筆者はこの一連の動きの間、パリ郊外の私立病院で開業医として診療しながら事態の成り行きを観察してきた。筆者なりの考察とマスコミのそれとを加えて今回のストについて考えてみたい。
さて、冒頭で述べたように、医療の国レベルでの経済収支は診療行為そのものに何らかの歯止めをかけないと際限なく赤字が増え続けるということは、北欧、イギリスなどの近過去の例からして紛れもない歴史的事実である。社会医療保険という概念の全く無いアメリカにおいても、別の方面からこのことが証明されつつある。すなわち、
クリントンによる国民皆保険計画はとん挫したものの、私的な保険会社主導によるマネジドケアにより、アメリカの医療経済収支は改善しつつある。このマネジドケアの
中身も端的にいえば、医療の自由度の制限である。もちろん、わが国においても特に老人に対する医療において医療行為の制限が具体化されつつある。これらの動きは確かに、患者ー医師双方からみて「理想の医療」から遠ざかる方向の動きであるが、逆行できない必然的な動きともいえる(下世話にいえば、無い袖は振れない)。
さて、フランスを振り返ってみると、まずジュペ案が発表された直後の1995年12月のゼネストである。これには医療関係者の関与は少なかったが、1ヶ月にわたって公共交通機関や郵便に至るまですべての都市機能が停止した。公務員の権利を守るという名目でOECDに加盟しているこの先進国が時代に逆行したこのような暴挙に走るのか、
というのがこのストに対するフランス以外のマスコミの当時の評価であった。その延長上にあるのが今回のインターンストである。確かにスト派のインターンの大半の気
持ちは良心的な医療を守りたいということであったであろうが、このストは既に自由 開業している医師たちの既得権をも守るためにうまく利用されているという見方もあった。どちらにせよ、インターンの要求はあまりにナイーブで現在のフランスの国家経
済の状況を無視したものである。また彼らインターンは1995年のゼネストを組織した組合運動のプロではないこともあり、結局何も得るところなく終わってしまった。
ジュペ案に対するインターンの反対運動も自然消滅し、これで社会保障改革が軌道に乗るのかと思いきやまた大きなどんでん返しが起こった。5月25日と6月1日の2回にわたって行われた解散総選挙でシラク・ジュペの属する中道右派が大敗し、社会党が議
席を大幅に伸ばし、社会党党首ジョスパンがジュペに替わり首相になってしまったの である。この選挙結果に対しても、アングロサクソン系マスコミの評価はフランス国
民は国家経済の改革の責任を放棄し問題を先送りしたという厳しいものであった。もちろんシラク大統領の任期はあと5年あるが、国内問題は首相と閣僚の守備範囲であ
る。社会党はジュペ案に対し反対の立場であったので、社会保障医療の改革の行方は 現在のところ全くみえていない。
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