Dr.Kido History Home
E-mail

ブルックリン便り  

ボタン パリ、アメリカ病院便り(1) ボタン

週間医学界新聞95年7月掲載

1)出発まで
 アメリカ病院
  1995年4月より、パリ北西部のヌイイにあるパリ、アメリカ病院(American Hospital of Paris)にて在留邦人のためのプライマリーケアを行うことになった。今回のプロジェクトには、海外での在留邦人医療としていくつかのユニークな特徴がある。まず第一は一流の総合病院の中での医療であること。このため、患者にはプライマリーケアから、必要に応じて専門的医療までの質の高い完結した総合的な医療を提供することができる。第二に、日本人医師の導入を提案したのが日本側ではなくてアメリカ病院側であることである。当院は仏語圏での数少ない英語の通じる病院ということで、以前より日本人によく利用されてきた。邦人社会でもその恩に報いるため、病院施設改善のための寄付を行ってきた。今回は病院がそれに答えたというわけである。相手国の病院からこの種のプロジェクトが持ちかけられた例はかつてないように思われる。第三点は第二点とも多少関連するが、日本人医師をリクルートしにくい非英語圏という壁を、仏英バイリンガルの病院の利用という発想で突破したことである。
 以上に述べたようなユニークな医療の一形態を、特に卒業して間もない若い医師の諸君に将来の医師としての活躍の場の一つとして考えてもらうことを主な目的として、今回から何回かにわたって、本紙に私の体験を連載することにした。まず第1回は出発できるまでの経緯(これがもっとも貴重な体験かも知れない。)をご紹介する。

 この日本人医師のリクルートプロジェクトがアメリカ病院で計画されたのは80年代後半にさかのぼる。もともとアメリカ病院は仏英バイリンガルという特殊事情から外国人医師がその国の医師免許で医業を営むことができることがフランスの条例(arrete)により保証されていた。実際上は外国人医師といっても、これまではほとんどすべてがアメリカ、カナダ、イギリスなどの英語を母国語とする国の医師であった。この外国人医師枠を、これまでの6人から将来の日本人医師リクルートのために8人に増やすためにほぼ5年の歳月が費やされたという。
 この成果を踏まえ、1992年6月に東京大学医学部国際交流室に日本人医師リクルートの正式な依頼がなされた。そこから紆余曲折を経て、筆者がその最有力候補者に推され、1993年10月にアメリカ病院での面接のために招待を受けた。面接は無難にこなせて翌月の11月に病院よりの採用通知を受け取った。ここまでは、事は順調に進んだ(実際の準備は5年前より始まっているのだが)。 が、しかし予期せぬ出来事が起こるのはこの後である。 面接の際に、赴任は暫定的に1994年の春にすることに双方が合意していた。この時点では、これまでのアメリカ病院の外国人医師の実績、外国人医師枠の拡大の成功などからみてヴィザ取得に問題が起こるとは誰も想像していなかった。2月に大阪のフランス領事館にヴィザを申請すると、日本から医師としての就労ヴィザ申請の先例がないので、本国照会の扱いになるという。ヴィザ発行の可能性や発行までの時間については、領事館レベルではまったく答えようがないという。5月頃に再度、領事館に問い合わせたが、依然本国(仏外務省)からはなんの指示もないという。そうこうしているうちに、アメリカ病院よりファックスが入り、手続きの遅れの理由は、フランスのいくつかの医療組合が新たな外国人医師の参入に難色を示していることであるという。いかしこれも近々解決の見込みがついているとのことだったので、組合問題さえ解決すればヴィザは発行されるものと思っていた。この組合問題は夏に解決したのであるが、秋まで待ってもヴィザは一向に発行される気配がない。この頃に、日本の外務省より情報が入り、フランス側は互恵主義を主張して、これが認められなければヴィザは発行できないといっているらしいことがわかった。互恵主義というのは、日本人が、それが例え一人であっても、日本の医師免許でフランス国内で医療行為ができるのであれば、同様のことがフランス人にも許されなければならないということである。この情報をきいて私は頭を抱え込んでしまった。そもそも今回のプロジェクトが可能になったのは、パリ、アメリカ病院というその病院内で外国人医師が法的に問題なく働ける病院が存在したからである。同様の病院が存在しない日本に、互恵主義を要求されてもどうしようもない訳である。このように事態は両国外務省の交渉という、まったく予想もしていなかった展開にいたった。
 交渉は94年の年末まで延々続いていたようである。95年に入って、パリで新たな展開、それもいい方向への展開があったとのファックスが1月16日の深夜に神戸の自宅に届いた。その6時間後に阪神大震災が神戸を直撃したのだが、幸い我が家のある、東灘区の六甲アイランドはほとんど被害をこうむらずに済んだ。このまさに「事実は小説より奇なり。」の経過の後、95年3月8日、念願の就労ヴィザのスタンプを大阪の仏領事館で押してもらった。普通の何の変哲もないスタンプで、手書きの但し書きを書き加える時間をいれても、事務手続きは10分程で終了した。スタンプをもらった瞬間は正直にいってうれしかったが、この10分間の手続きのために丸々1年間待ったのだという思いがすぐに込み上げてきて、なんとも複雑な気持であった。翌日から早速、航空券の手配などの準備にかかり、3月28日、無事関西空港より出発の運びとなった。
 以上に示したように、国を越えての新たなプロジェクトは分野に関わらず、似たような困難を伴うようである。それは、そもそも国家というのは本質的に各々の国益をまず優先するものであるし、それを実際に執り行う官僚の判断の拠り所は先例であるからであると思われる。さて、今回の例では関係各位が粘り強く、計画を成功させるという強固な意志を持ち続けたことが勝因の大きな一つではなかろうか。もちろん当事者の筆者も諦めの気持を抱いたことはなかった。この一年間で、神戸ーパリ間を往復したファックスの数はゆうに百枚に達する。この経過に身近に関わったことで、筆者自身の交渉能力あるいは危機管理能力が増したことは、我が事ながら間違いない事実であると思われた。次回はパリ、アメリカ病院の本格的なご紹介をしたい。

略歴
1977年:大阪医科大学卒業
1979年:同第三内科にて研修終了
1980年:厚生省臨床指導医留学制度にてNY州立大学家庭医科にてレジデント開始
1983年:同終了、帰国後、国立大阪病院総合内科にて研修医指導にあたる
1986年:厚生省家庭医懇談会に専門委員として加わる
1990年:ペルシャ湾岸危機時、日本医療隊第二次チームリーダーとしてサウジアラビア派遣
1993年:国立大阪病院退職、現在の医院にて父とグループプラクテイス開始

| BACK |

Top

木戸友幸
mail:kidot@momo.so-net.ne.jp