L'ETE
1975(1)
1)プロローグ
少し大げさですが、1975年の夏は、私のそれからの人生を変えた夏でした。この夏の体験がなければ、その後の人生でニューヨークやパリで生活をすることはなかったかも知れないと思うのです。その密度の濃い夏の思い出を記憶を辿りながら振り返ってみたいと思います。
あれは1975年ですから、大阪医大の5年生の夏休みのことでした。それまでに、2年間ほど大阪のフランス語学校でフランス語を学んでいて、基礎文法とそれなりの語彙の蓄えが出来ていた頃です。フランス語をもう少し極めたいという気持ちが強まり、フランス各地の大学で行われている夏期講習に応募したのです。最終的に決めた場所は南仏のグルノーブル大学でした。グルノーブルというと、クロード・ルルーシュの「白い恋人たち」という記録映画で有名な冬季オリンピックが開かれたことで、記憶されている人もいらっしゃるかも知れません。南仏といっても地中海からはまだかなり北に離れている山間の盆地です。
学生の身ですから、やはり問題は費用でした。飛行機の往復運賃が一番大きなもので、確か20万円くらいかかったと思います。それもその当時一番安いと言われた旧ソ連のアエロフロートのエコノミーを使ってです。航空運賃はその当時は円の価値が低いということもあり、現在(2009年)よりずっと高かったのです。この費用を工面するために、週2回の家庭教師のアルバイトを続けていました。医学部ですから、授業や実習はすべて必修です。それに陸上部に属していたので、その練習もあり、もちろん大阪日仏学院というフランス語学校も週3回あるということで、私の大学生活はいつも超多忙でした。しかし、医学の勉強も陸上の練習もフランス語の学習も、どれも目的がはっきりしていて、好きで選んだことですからまったく苦にはなりませんでした。最終的には親が10万円くらい援助してくれたのと、何かのときのためにとクレジットカードを持たせてくれ、なんとか費用面はクリアーできました。この点、家から大学に通っていて、学費以外の迷惑を親にかけていなかったことが少し役に立ったかも知れません。
二つ目の問題は、夏休みを利用するので、医学部運動部の年間の最大のイベントである西日本医科大学体育大会(略して西医体)の出場をキャンセルしなければならないことでした。こう見えても、私は2年生と3年生の時には西医体の400
mで優勝しているのです。ですから私が抜けると明らかに得点が減ることになります。さらに追い打ちをかけたのが、陸上部の同級生が私に感化されたのか、同時期にパリでのフランス語夏期講習に参加すると言い出したのです。万事休すです。陸上部長の解剖学教授や、部活の同級生、下級生に平謝りに謝って、何とか許してもらいました。後日談ですが、その年の西医体では、危機感の中、同級生、後輩共に奇跡的な頑張りを示し、我が陸上部初の総合優勝を達成してしまったのです。それを知らされた時は、さすがにちょっと複雑な気持ちを味わいました。
最後の問題は、7月から8月にかけての1か月間の夏期講習の後さらに1ヶ月間のギリシャ旅行を計画していたのです。そうすると、大学の2学期の始まりの2週間ほどを休まないといけないのです。今から考えると、信じられないほどうぶで正義感に富んでいた私は、わざわざ休暇届を提出して夏休みに突入したのです。これが後にとんだ騒動を引き起こすのですが、それはまたお話しします。
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