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ボタン 「満足度を求めての旅」  ボタン


国立病院時代
  83年に帰国し、そのまま国立大阪病院で、総合内科(帰国当初は内科)において、研修医指導と一般診療にあたることになった。帰国後直ちにしたことは、病院敷地内にある公務員宿舎への居住申込であった。因みに実家の医院は通勤半時間のところにある。当時、国立大阪のプライマリ・ケアのことに関しては24時間、自分が仕切るというくらいの気概を持っていた。そのための公務員宿舎住いである。研修医室に出向き、自己紹介と宿舎の電話番号を記した張り紙をはった。もちろん、連絡は24時間可能と但し書きをして。先輩や同僚医師からは奇異な目で見られたが、研修医は次第に受け入れてくれるようになった。数年後には、研修医から午後5時過ぎの内科部長という名を奉られるに至った。
総合内科外来も多いときは週4回、主に初診患者を中心に診ていた。これも、何をやっているかが次第に理解されるところとなり、外来婦長が、各科の外来看護婦に「困った患者さんがあったら、まず木戸先生に相談しなさい」と言ってくれるまでになった。何代かの外来婦長の信頼を得て、付けられたあだ名は「影の内科部長」であった。こ こでも、「断らない。逃げない」の姿勢が信頼を生んだのだと思う。この噂は総合受付の職員の間にまで届き、特に日本語をしゃべれない外国人患者が受付を訪ねたときは、必ず呼ばれることになった。
国立病院医師として、湾岸危機時の医療隊に参加して、時の厚生大臣より、感謝状を頂いたが、その感謝状より、研修医からもらった「5時過ぎの内科部長」、外来看護婦からの「影の内科部長」という称号の方が、筆者にとっては名誉あるものであると思っている。
このようにして、国立大阪病院での勤務はあっと言う間に10年になるのであるが、こ の頃、ここで出来る自分の仕事はある程度し尽くしたという気持ちになり始めた。地域の開業家庭医になる前に、これまでの米国と国立大阪での体験を生かし、「理想の家庭医療」の実験的な試みは出来ないだろうかということを漠然と思い始めていた。

パリでの診療
  フランス、パリにあるアメリカン病院で、在留邦人のプライマリ・ケアの出来る日本人医師公募の情報が90年代初頭に、東京大学医学部国際交流室よりもたらされた。医師の条件は、内科系の臨床研修を米国で受けた日本人医師で、日常生活に足りる程度のフランス語能力があることが望ましいとある。実は筆者は医学生時代に英語と共にフランス語の学校にも数年間通っていたので、フランス語も少し復習すれば何とかいける自信はあった。紆余曲折の末、パリ・アメリカン病院初代日本人医師に選抜され、95年春よりパリに赴任することになった。
パリで、筆者の理想とする家庭医療の2年間にわたる実験をしようと決心したことは言うまでもない。その決心に至る理由はいくつかある。それらは以下の通りである。
1)パリ・アメリカン病院は歴史も実績もある総合病院で、医療を行なう環境としては最適である。
2)技術料重視の私立病院なので、少人数の患者を予約制で時間をかけて診察することが可能である。
3)診察料は、企業赴任者は企業より支払われ、留学生や旅行者は旅行障害保険より支払われるので、高い診察料も患者負担にはならな い。
4)海外での、自国人医師による診療であるので、患者側の満足度がより大きく感じられる。
この病院で筆者が一番確認したかったことは、日本人患者に、きちんとしたインフォー ムド・コンセントに基づいた医療を、予約制でしかも時間的に余裕のある診療という状況で行ない、満足してもらえるかどうかということであった。何故そんな当たり前 のことをと思われる向きもあるかもしれない。しかし、かなりの数の日本人患者を年の単位で、上述の状況で診療することは日本の保険診療では不可能に近いので、これ までこういうことが実証されたことはないはずである。当たり前のことを、そうだろ うと想像するのと、そうだと実証することの間には雲泥の差がある。
2年間の診療で、3000人の外来患者の診療と500人の健康診断を実施することが出来た。 一日につき5〜10人の患者を一人に半時間かけて診察した。もちろん、完全予約制である。まず、応接室でゆっくりインタビューした後、隣の診察室で診察し、その後再度応接室に戻り、診断と検査、治療法などの説明をするというのが、パリでの診療の標準であった。疾患は急性上気道炎や胃腸炎などのコモン・ディジーズが圧倒的に多いのであるが、海外在住の邦人という特殊条件により、ほとんどの患者が心身症的な症状を持っていた。したがって、こういう落ち着いた雰囲気での、時間的に余裕のあ る診療は、好評であった。特に定量的なデータをとったわけではないが、複数の在留邦人組織や領事館筋から、好評である旨の報告を頂いた。2)

そして現在
 97年秋にフランスより帰国し、木戸医院で家庭医としての診療を本格的に始めること になった。これまで、父の代理で何度も診療はしていたことと、何と言っても、小学校から大学までこの医院から通った地元であるので、患者とはすぐ打ち解けることが出来た。診療形態は、保険診療であり、30数年続いている医院であるので患者数も多く、パリでのような診療をするわけにはいかない。しかし、そのエッセンスを短時間 の診療の中に、工夫をこらして挿入していくことは可能である。古くからの患者は、筆者の医師になってからの活動をすべて知ってくれているということと、筆者は世界のさまざまな現場で直接学んだ知識で勝負するので、説得力が違うという二つの事実 により、診療時の小さな工夫が大きく生きたことは事実である。3)
以上は開業当初のソフト面での工夫であるが、ハード面でも、大きく変革しようと思い立った。98年夏より、従来の建物をすべて解体し更地にすることから始め、10カ月間かけて医院を新築した。新築にあたっては、筆者の医院建築の抽象的な考え方を忠実に造形してくれる建築家を厳選したかった。パリを拠点に8年間、ヨーロッパや中東での建築活動に携わり、現在は日本で独立して事務所を開いている建築家に巡り合い設計を依頼した。広く、高く、明るい内部、派手でなく、上品で気品のある外観といった注文はすべてうまく造形されたように思える。また、患者に好評な中待合のギャ ラリーなどは、建築中に筆者と建築家とのアイデアの交換から生まれた。4)
開業家庭医にとっては、定年は無く、それこそ死ぬまで地域で家庭医を務めあげるのが使命である。したがって、これからは、患者満足度を上げるための、主にソフト面 の工夫を、焦らず急がず試行錯誤しながら続けているつもりである。

旅の途中での結論
 これは、一人の家庭医の四半世紀の一例報告に過ぎないので、ここで述べられるのは、 単なる「結論めいたこと」である。現在の思いの中で、比較的普遍化できそうなこと を個条書きで挙げる。
1)プライマリ・ケア医療の善し悪しは、患者満足度で決まる。
2)患者満足度は、その患者の属する医療文化によって大きく左右される。5)
3)患者満足度を上げるためには、出来るだけ早く患者解釈モデルをつかむことが必要である。
4)患者満足度志向の医療のトレーニングは、日本ではまだまだ量、質ともに不十分 である。したがって、自らで研修法を切り開いていかなければならない。6)
5)このトレーニングを辛い義務と感じているうちは、患者に満足は与えられない。 医師自らが、その仕事に満足できて、始めて他人に満足を与えられる。

当論文は、2001年11月、東京での第16回家庭医療学研究会にて発表した大会長講演に 加筆・訂正を加えたものである。

参考資料
1)http://www.carefriends.com/kido/newyork/index.html 「ブルックリン便り」
2)http://www.carefriends.com/kido/paris/index.html 「パリ・アメリカ病院便り」
3)木戸友幸:日常病診療のポイント、家庭医プライマリ・ケア医入門、家庭医療学 研究会編、プリメド社、p83-88
4)木戸友幸:患者のためのアメニティ、家庭医プライマリ・ケア医入門、家庭医療 学研究会編、プリメド社、p165-168
5)木戸友幸:心身症シュミレイションモデル、プライマリ・ケア、vol.14 No 4 1991, p534-535
6)http://www.carefriends.com/kido/education/index.html 「医学教育」


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