胸部不定愁訴(NCAなど)
南山堂「治療」2004年3月増刊号に掲載
(医)木戸医院副院長
(社)臨床心臓病学教育研究会(JECCS)副会長
木戸友幸
1)症状
臨床心臓病学教育研究会(JECCS)は大阪を中心に、この20年間、臨床心臓病学の教育と啓発活動を行っている社団法人である。このJECCSがホームページ上で、医療質
問を受け付けるようになって3年あまりになる。この質問の回答のほぼ 9割を筆者が担当してきた。2000年5月から2003年11月末までの質問の統計をとってみた。質問は
計220あり、その内循環器系の質問は190と86%を占めていた。この190の循環器系の質問の内、いわゆる心臓神経症的な訴えのものは、89(47%)であった。この心臓神経症的訴えの内訳は、動悸や脈の飛びを訴える「不整脈」的な症状が46%、胸痛が43%
、胸痛、圧迫感、動悸、息苦しさなどの複合的な胸部症状の訴えが10%であった。 観点を変えて上記の三大胸部不定愁訴がそれぞれの疾患範疇の中で占める割合は、不整脈的訴えの中の60%、狭心症的訴えの中の67%、複合的胸部不快感の中の64%であっ
た。
われわれ臨床医が経験上、多いと感じている胸部不定愁訴とこの統計結果はほぼ一致しているように思える。動悸や胸痛の中に占める心臓神経症が6割程度というのも、経験則と一致するようである。
このように、器質的疾患を有さないいわゆる胸部不定愁訴を二分しているのは、動悸と胸痛である。これらに呼吸症状を加えた複合的な訴えが動悸、胸痛よりはるかに少数であるが、存在する。
2)問診・検査
まず、患者が診察室にはってくるときの感じが重要である。疲れた表情、女性ではまっ たくの化粧気なし、苛々した態度と言動、オドオドした感じ、溌剌感がないなどを感
じた時は、一応要注意である。これらの、第6感は大切であるが、逆に先入観から誤診を招くこともあるので、その辺りのバランス感覚を常に保つことも必要である。
問診は、もちろん循環器系、呼吸器系の疾患を想定した型通りのものを先ず行うのだが、器質的な疾患としては合理性に欠ける症状の起こり方であることが分かってきた段階で、オープンクエスチョンを多用した医療面接的なものに変えていく方がよい。オープンクエスチョンを使うことにより、患者の「物語」を聴いてみるのである。そこから、患者一人一人の実生活と症状との関連が見えてくる。オープンクエスチョンの合間にタイミングよく、症状の起こる状況(運動中か安静時か)、症状の起こっている長さ、随伴症状(吐き気、冷や汗など)を入れていくと、問診の精度は上昇する。
診察と検査は、胸部での重要臓器、すなわち肺と心臓に重点をおいて行う。肺と心臓の聴診の結果に関わらず、胸部X線と心電図は最低限実施したほうがよい。問診と診察だけでは、器質性疾患と区別をつけにくい疾患、例えば小さな自然気胸、WPW症候群などが見つかることもあるからである。また、検査でまったく異常がない場合(そ
れが殆どだが)そのことを視覚的に説明することが出来、説得力が増すからである。心拍異常を訴える患者の一部にはホルター心電図が必要になることがある。全例に心エコーを実施する必要はないと思われるが、聴診で収縮期雑音や収縮期クリックを聴取した時は、僧帽弁逸脱症候群の診断のために心エコーを行うことが勧められる。この疾患は、神経質な若年者に多く、胸痛や動悸が発作的に起こり、まさに不定愁訴的な訴えが多いので、心臓神経症と鑑別困難なことと、心エコーでほぼ確定診断が付くという二つの理由からである。
血液検査はスクリーニング的な生化学検査と血算を行うのは、全身スクリーニングの意味で妥当であると思われる。特に動悸が主訴の場合は、甲状腺機能亢進症を除外するために甲状腺ホルモン検査をそれに付け加える。
3)診断
上記の問診で、肺や心臓の器質的疾患が考えにくく、胸部不定愁訴である可能性が高いと判断し、診察と胸部X線、心電図で異常がない場合は、器質的疾患のない不定愁訴としてよい。実際の診断名は、胸部の痛みが主症状の場合は、肋間神経痛、胸痛や動悸が主訴の場合は心臓神経症とすることが多い。初診時に時間をかけた医療面接が出来た場合や、何度かの再診時での印象や情報収集で、その原因になる心理的な要素が特定出来ることがある。もっとも多いのは、うつ、パニック症候群、不安神経症などである。
4)治療
個別の薬物療法の話に入る前に、患者解釈モデルに少し触れたい。解釈モデルとは病気や治療について、本人がどのように解釈しているかということであるが、これには、医療側と患者側の2つのモデルがある。この両者の解釈モデルが離れていればいるほど、患者満足度やコンプライアンスは低いといわれている。その逆もまた真である。前出のJECCSの医療質問を見ても、これまで何年にもわたって、医師を転々としたが、検査ばかりで、心臓、肺は悪くありませんと言われただけで、納得がいかないといった質問が非常に多かった。したがって、胸部不定愁訴を訴える患者の解釈モデルの多
くは、「これが、命にかかわるような肺や心臓の疾患ではないという納得の出来る説明を聴いて、安心感を得たい」というものだと思われる。したがって、この患者解釈モデルに沿った説明に成功すれば、薬物療法が必要ない場合もしばしばある。
薬物療法は、対症療法が主体になる。肋間神経痛症状には、鎮痛剤、動悸を主訴とする心臓神経症症状には、マイナートランキライザーの頓用か、少量のベータ遮断剤が有用である。根底にうつ、パニック症候群、不安神経症がある場合には、その治療が必要になる。この場合抗うつ剤のSSRI単独か、マイナートランキライザーをそれに組み合わせることが多い。胸部不定愁訴の患者には、うつとパニック症候群が共存している場合が多いので、SSRIの選択にあたっては、パニック症候群にも効果のあるパロキセチンを選ぶことが多い。
5)治療後の判断
JECCSの質問者の多くがそうであるように、胸部不定愁訴を訴える患者の多くはこれまでにドクターショッピングの経験がある。これは、彼(彼女)らが医師の説明に満足感を覚えないからである。したがって、このドクターショッピングを止めさせることが、継続治療の最大のポイントになってくる。これに一番効果的な接し方は、筆者の経験では、パターナリスティックなアプローチである。確かに、このアプローチは一般的には従来の日本的な医療の欠点とされているが、心身症であることがほぼ確実で、ドクターショッピング傾向の患者をつなぎ止めるには非常によい方法の一つである。
「あなたはこの病気で絶対に死ぬことはないから、私を信じて月に一度は必ず受診してください。」といった接し方が効果があるようである。
さて、このようなアプローチで、薬物療法も併用し、いったんは落ち着いても、この種の疾患は必ずといっていいほど再発する。最初のアプローチがその患者の解釈モデルに合致していれば、再発時も受診してくれるはずである。その再発時の再診の時も、患者を責めることなく暖かく受け入れる態度が必要である。再発の症状は、普通、初発時より軽いことが多い。それに加えて、期待通りに暖かく受け入れられば、再発時の予後はもっと良いはずである。
6)医療経済的考察
日本の出来高払い制度の医療では、今まで述べてきたような時間のかかる医療面接や、その後の患者対応をしていてもまったく利益にはつながらない。むしろ、患者の訴えをそのまま(というより少し大げさ目に)とって、「狭心症疑い」とし、非侵襲的検査一式と、冠状動脈撮影をするほうが、よほど利益になる。そして、多くの医療現場では、後者が頻繁に行われているのが現実である。
これは、一医療施設の利益につながることかも知れないが、日本全体の医療経済を考えると、大きな損失である。また、侵襲的検査をすることは、潜在的な患者への危険にもつながる。
このような、大所高所からの視点も持って、胸部不定愁訴を訴える患者に接することが大切であると考える。